文法学研究会 第6回集中講義

 テーマ 『個別言語の認知言語学的探究』

◇日程・講師・講義題目

2012年8月18日(土)
[受付 9:30-10:00]

午前の部 10:00-12:30
 池上嘉彦 (昭和女子大学特任教授/東京大学名誉教授)
  「個別言語志向的な類型論に向けて」

午後の部 14:00-16:30
 西村義樹 (東京大学教授)
  「英語と日本語の文法はどこがどう違うか?」

2012年8月19日(日)
[受付 9:30-10:00]

午前の部 10:00-12:30
 木村英樹 (東京大学教授)
  「中国語文法における有標化の諸相」

午後の部 14:00-16:30
 尾上圭介 (東京大学名誉教授)
  「文法に見られる日本語らしさ―〈場におけるコトの生起〉と〈自己のゼロ化〉―」

 ※午前の部・午後の部ともに、途中休憩あり。質疑応答20分を含みます。

◇会場

 東京大学 本郷キャンパス
 法文2号館 文学部2番大教室 《地図

◇対象

 言語学(英語学・中国語学・日本語学)研究者、学生、言語教育関係者 など

◇受講料

 一般: 4,000円
 学生: 3,000円

※事前の申し込みは不要です。2日間一括の料金となります。当日、受付にてお支払いください。

◇テーマの趣旨

 認知言語学の目的は多種多様な言語現象の本質を人間の一般的な認知(心の仕組みや能力)との関わりにおいて解明することにある。
 尤も、こうした目的意識は、認知言語学という領域が確立する以前から、個別言語の研究に携わる一部の研究者の間でも明に暗に共有されてきたものではある。認知言語学が個別言語の研究にもたらした最大の功績の一つは、そのような目的意識に対して理論的正当性を保証し、目的の達成に繋がるさまざまな概念と方法論を精緻に理論化し、それによって、従来は個別の事例と見られがちであった諸々の事象を、個別言語の枠を超えた一つの土俵の上に引き上げ、「共通のことば」を通しての考察と検証を可能にし、問題に対するより一般性の高い理解を可能にしたことであると言える。
 今回の講座では、日本語、英語、中国語という、類型論的にはいくつかの特徴を異にする三つの言語を取り上げ、それぞれの言語におけるいくつかの文法現象を認知言語学的な観点から掘り起し、あるいは捉え直すことにより、文法現象(あるいは文法というメカニズム)における言語ごとの多様性と言語差を越えた普遍性の両面を明らかにし、個別言語の文法研究における認知言語学的なアプローチの意義および可能性に対する認識を深めたい。

◇各講師の講義内容紹介

1. 個別言語志向的な類型論へ向けて

  池上嘉彦

 任意の一つの言語をとりあげ、それを全体として統合的に特徴づけるような類型論は可能であろうか。かつて(<個人の文体論>に対して)<言語の文体論>(stylistique de la langue)と呼ばれたものもこのような志向性を有していたと思われるが、残念なことに国家主義的なイデオロギーに毒されるということもあって、現在ではほとんど顧みられない。現在の<類型論>の関心と言えば、任意の文法範疇をとりあげ、それが諸言語を通してどの程度の多様な(しかし、有限個の域に収まる)形式によって実現されるかを確認し、その上で、各個別言語によって利用されている形式はどれ(とどれ)であるかによって類型化するという方向での試みである。この指向性は、それまでの<相対性>強調への偏向(構造言語学の場合)や<普遍性>強調への偏向(変形生成文法の場合)と較べて、人間言語の実像を、より正しく捉えていることは確かである。  ただし、人間言語としての普遍的な特徴の上に各個別言語によって選択される相対的な特徴が重なるとしても、その際の各言語による選択がまったくランダムに行われるとは考え難い。どの言語の話者も、自らの母語を非母語と対比して体験する機会を豊富に持てば、自らが自らの母語に関して<母語らしさ>と呼べるような統合的な感覚が働いていることに気づく。個別言語における相対的な特徴の選択も、そのような統合的な<~ 語らしさ>という感覚を支えるという形でなされているはずである。実は、以前にこれと一見似た方向での試みが<含意的普遍性>という名称のもとになされることがあった。ある言語に “A”という特徴があれば、 “B”という特徴も見出される―こういう含意関係が成り立つ場合を拾い上げていくというものであったが、いつの間にか立ち消えになってしまった。言語構造レベルの特徴を(それらによって担われる認知的な機能についての考慮はさて置いて)形式的に処理するということでは限界があるということが認識されたためであろう。
 これまでの試みを参照しつつ、現時点で個別言語志向的な類型論と呼びうるものと取り組むとすれば、何よりもまず従来のように<言語構造>レベルの形式的な特徴に拘っているのでではなく、<言語話者>レベルの認知的スタンスの特徴に注目する―つまり、個々の構造的特徴がB. L. Whorfのいう<好まれる言い回し>( ‘fashions of speaking’)として統合されることを支えている話者の感覚―という姿勢が欠かせないであろう。そして、その検証に際しては、<相同性>(homology)の概念を発見的に利用するのが有効であるはずである。
 以上のような視点から、<日本語らしさ>という直観を支えている認知的スタンスとはどのようなものかを考察してみたい。

3. 中国語文法における有標化の諸相

  木村英樹

 言語形式において無標と有標の対立が生じる意味カテゴリの種類は、言うまでもなく、言語によって異なる。英語では、よく知られるように、数のカテゴリにおいて、単複の対立が無標と有標の対立として言語形式に反映されるが、中国語ではこれに対応する現象は存在しない。中国語の名詞には単数形と複数形の対立は存在しない。代わって、中国語では、総称もしくは属性としての事物か、個別・具体の存在としての事物かの対立が、数量詞の付加をめぐって、名詞表現における無標と有標の対立に反映される(大河内康憲1985.「量詞の個体化機能」『中国語学』232:1-13.(大河内康憲『中国語の諸相』東京:白帝社、に再録)参照)。たとえば、“猫”という裸名詞(すなわち、数量詞を伴わない名詞)は、通常、総称もしくは属性としての「ネコ」を意味するのに対して、数量詞が付加された“一只猫”(一匹のネコ)や“几只猫”(何匹かのネコ)は、具体的な個別の存在としての「ネコ」を意味する。「私はネコが嫌いだ」と言うときの「ネコ」は、中国語では裸名詞を用いて、ただ“猫”と言い、「ベランダにネコがいる」と言うときの「ネコ」は、数量詞を付加して“一只猫”(一匹のネコ)や“几只猫”(何匹かのネコ)と言う。すなわち、個別・具体の存在としての事物に言及する場合には、数量詞による有標化が必要とされる。
 表現形式の違いは表現者の事物や事態に対する捉え方(construal)の差異を反映すると考える認知言語学の観点からすれば、形式や構造における無標と有標の慣習的対立の内実を明らかにすることは、当該言語の表現者の事物や事態に対する認知的な有徴性の問題を考える上で有益であると考えられる。今回の講義では、中国語に関してこれまで個別に指摘されてきたいくつかの有標化に関わる現象や、従来見過ごされてきたいくつかの関連現象を取り上げ、それらをより一般的な観点から特徴づけることにより、中国語の文法現象の認知的特質の一端を明らかにしたい。

4. 文法に見られる日本語らしさ―〈場におけるコトの生起〉と〈自己のゼロ化〉―

  尾上圭介

 言語話者レベルの認知的スタンスの特徴に注目して、日本語らしさはどういうところに認められるかを問うなら、おそらくは次の二点が目につくであろう。今回の集中講義一日目の池上講師の講義で紹介される“好まれる言い回し”( ‘fashions of speaking’)という用語に従えば、日本語の“好まれる言い回し”としては、まず、下の二点が注目される。
 第一点は、事態を〈場におけるコトの生起〉として語る傾向がある程度高いということである。ものの存在を語る文において、存在物でなく存在場所を事態認識の基盤とするということは多くの言語でありうることだが、日本語では、人の感情を語る文でも、感じる人(情意の主者)を場としてその場に情意的事態が生起しているという文構造をとる。「私はきのうの失敗が悔しい」というのは「私」を場として「きのうの失敗が悔しい」というコト(「きのうの失敗」が「悔しい」というありさまで存在しているコト)が生起しているという文構造(認識形式)にもちこんでいるものであり、ここに第1種二重主語文が成立する。場を事態認識の基盤(文の主語)とするということはどの言語でも少しはある(場主語構文)ことだが、日本語ではその傾向がある程度大きいということができよう。
 日本語では、〈可能〉〈自発〉〈受身〉というような意味までも〈場におけるコトの生起〉という文構造(=認識形式)(ラレル形述語文およびその周辺の文を〈出来文〉と呼ぶ)にもちこんで表現する。「三宅さんは100キロのバーベルが(を)持ち上げられる」〈可能〉というのは「三宅さん」を場として「100キロのバーベルを持ち上げる」というコトが(動作主がその意志を持てば)起こるのだという言語形式に持ちこんでいるのであり、「私(に)は去年のことが悲しく思い出される」〈自発〉というのは「私」を場として「去年のことを悲しく思い出す」というコトが(しようと思っているわけではないのに)起こってしまうという言語形式に持ち込んでいるのである。「太郎が先生にほめられた」「私は母親に早く死なれた」という〈受身〉文も、「太郎」において「先生が(太郎を)ほめる」というコトが起こった、「私」を場として「母親が早く死ぬ」というコトが生起したという言語形式に持ち込んでいるのだと了解される。〈可能〉〈自発〉〈受身〉という意味そのものは、動作主の能力、非意図的行為、動作対象の被働きかけなどとして、つまり個体の運動ないし性質として表現されることも十分にありうる(そういう言語が圧倒的に普通であろう)のだが、日本語では〈場におけるコトの生起〉という認識形式を利用してその意味を実現するのである。
  “好まれる言い回し”として注目される第二点は〈自己のゼロ化〉の傾向が高いということである。動詞シヨウ形で終わる文が〈推量〉(「明日は大雨が降ろう」)の意味と〈意志・勧誘〉(「学校へ行こう」)・〈命令〉(「下郎め、下がりおろう!」)の意味になり、それ以外の意味にならないのは、推量したり意志・命令したりする話者自身をことばで語られる画面の中に登場させず(=自己のゼロ化)、推量する内容、意志・命令する内容だけを言語化して表出するからである。ここでシヨウ形は、単に未実現の事態ないし行為を言語化するだけのものとして働いているのであり(非現実事態仮構の叙法形式)、〈推量〉とか〈意志・勧誘・命令〉というような主観的な意味を自身の形式の内に帯びているものではない。同じことは、動詞スル形で終わる文についても言えることである。自身の形式としては何ら主観性を帯びない事態の素材的表示形が文として表現の現場に出ると〈推量〉〈意志・命令〉などの意味を表現してしまうのは、ちょうど「すいか!」という一語文が状況により「すいかがあるぞ」という存在承認の叫びか、「すいかをくれ!」という希求の叫びとして了解されることと同じであって、話者自身を含まないコトの〈存在承認〉(未実現のコトの存在承認がいわゆる〈推量〉である)か〈希求〉(1人称領域の希求が〈意志〉、2人称領域の希求が〈命令〉である)という意味がそこに了解されてしまうのである。
 これは、〈自己のゼロ化〉という認知的スタンス次元での傾向が文の文法形式にまで食い入って見られる実例である。なお、モノにせよコトにせよ、ある対象を(身体的指差し行為でも、言語的にでも)指示することが表現の意味としてはその対象の〈存在承認〉(→感嘆)か〈希求〉になるという注目すべき事実は、山田文法(『日本文法論』1908)において看破されているが、このことの認知論的基礎付けは「共同注意」の成立の問題として認知言語学で論じられているところでもある。
 上記の第一点と第二点の間にも面白いつながりがあると考えられるが、それは講義の中で話したい。

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 東京大学文学部 西村義樹研究室気付
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新着情報 :

・2015年度は第7回集中講義(テーマ:文・述語・モダリティ[仮題]、講師:仁田義雄・尾上圭介)を関西・東京の二会場で予定しています。
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